かれこれ4年前になりますが、読売新聞で「読解力が危ない」という連載企画がありました。
2017年1月30日(月)~1週間、全6回の特集。
最終回の2月4日(土)には特別面が1面用意され、作家の角田光代さん、白梅学園大学教授の無藤隆さんが「どうすれば読解力が高められるか」という問いに答えています。
日々の記事の見出しを並べていくだけでも、いまの日本の子ども達の状況がおおよそ分かるものになっています。
ただ、それより何より、深刻なのは、すでに大人になってしまった人たちの読解力です。
そういえば、「作文指導」をやっていると、年に何人か大人の方からの問い合わせをもらうことがあります。
子ども云々の前に、大人もしっかりと文章を読み書きするということをやってきていない人がけっこうな数いるらしい。しかも、「先生」と呼ばれる方々も、案外しっかり文章が書けない場合もあるとか。
これまでの日本の「作文指導」や「作文教育」の問題もありますが、単に「作文が苦手な人が多いね」というだけでは済まない問題。この問題の闇はけっこう深いんです。
今回はそのあたりのことも踏まえて、読売新聞の連載企画「読解力が危ない」を読み解いていきたいと思います。
「読解力」とは
「読解力低下」という話題で外せないのは、教育界でいえば、2000年から実施されているOECD-PISA(経済協力開発機構が実施している国際学力調査)です。
2003年の調査結果で、日本の「読解力」(正確には、Reading Literacy)の国際順位が大きく低下しました。それにより教育界では「PISA型読解力」なる「新しい」読解力の育成が注目を浴びることになります。
その後、日本でも長らく実施されていなかった「全国学力調査」(全国学力・学習状況調査)が行われるようにもなったわけです。
さらには、「読解力向上プログラム」や「これからの時代に求められる国語力」などが文部科学省によって示されることに。その流れの1つの集約点が、平成20年度版学習指導要領といわれています。
現在の教育界の大きな特徴は、学習指導要領に示された「思考力」「表現力」「判断力」の重視といっても過言ではありません。これらは、ひとつ前の平成10年度版学習指導要領でもすでに示されており、ここ20年近くの重要なテーマと言ってもいいでしょう。
最新(2018年実施)のPISAの「読解力」の国際順位は15位、前回調査(2015年実施)で8位、さらにその前の調査(2021年実施)では4位となっています。着々と順位が低下しているという結果なわけです。文科省としても、教育関係者も日本の教育の大きな課題としてこの「読解力」を注視していることは間違いないでしょう。
このPISAの「読解力」というのは、日本で考えられているような文章を読む力とは若干異なる側面もあります。
日本の学校では、特に国語の時間には、物語文や説明文、最近では図表なども増加したが、そうしたテキストを読むことが主流となっています。簡単に言えば、日本の学校では、記された情報を受け取る読みが多いということです。
しかし、PISAでは示された文章から情報を受け取ったり、抜き出したりする以外にも、相手の意見を「解釈」したり、相手の意見を特定した上で、自分の意見を述べたりすることも「読解力」(Reading Literacy)には含まれています。相手の意見に対する「熟考」や「評価」とすることを含めて「読み解くための力」とされているのです。
日本では「主題指導」とか「正解到達主義」などといわれますが、ある決められた1つの解釈に向けて文章を「正しく」読んでいこうとする傾向が強いのです。反論したり、批評したりというのは、どちらかといえば苦手な人が多いといわれてきました。
「読解力」が低下するわけ
だから、これまで日本の教育の課題は「作文」だ、と言われることも多かったわけです。
しかし、ここへきて、文章の情報をそのまま受け取るという読む力でさえ、低下していることが懸念されているというのです。
たしかに、実際に子どもたちに接している身としても、文章の読み書きを重視してきた1人としても、文章の読み書きの力の低下は実感しています。
「読解力」「読む力」などと言われると、「本を読め!」というステレオタイプなリアクションをする人が多いです。もちろん、僕自身も「本を読め!」とは思っているけれど、それは読解力を付けようとか、国語のテストや成績を上げるためとか、そんなことのためではありません。
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そもそも教科書に載っている文章もまとめも読めない人が、本なんて超長文を読むことができるのでしょうか。できないから、こうなっているのはずです。
しかも、SNSの普及により、短文でのコミュニケーションが主になっていることが原因の1つと考えられているようです。
僕としては、短文のコミュニケーションばかりしている、というよりは、単に長文をじっくり読む経験を積み重ねられていない、ということが大きいと感じます。あるいは、短文のコミュニケーションうんぬんというよりも、動画の方が深刻な影響を与えているようにも思います。
たとえば、140字に制限されたTwitterを使った短文での表現が日常的になっていて、さらに、FacebookやInstagram、YouTubeなど動画や写真での表現活動もさかんになっています。
もちろん、これらの影響は大いにあるでしょう。
幼少期から、テレビだけでなく、DVDやBlu-rayなどの映像作品が身近な所にあり、当然いまや幼稚園生でもYouTubeを日課のように見ていることも決して珍しくありません。
本を読むことと映像(動画)を見ることでは、情報とのかかわり方や頭の使いがまったくちがいます。端的にいえば、能動的か受動的か。
小さい頃からじっくり本を読んだり、想像(創造)したりするよりも、だまっていてもきれいな画と音が流れてくる動画をくり返し見せられていては、当然、頭の使い方、情報の処理の仕方が変わってくるのです。
どうすれば「読解力」をつけられるの!?
読解力の向上に関して、「読解力が危ない」という連載企画の記事においても、さまざまな取り組みが紹介されています。
●算数の計算式から問題文をつくる
●新聞の社説の書き写し
●意見文の作成
●読書
などです。
僕自身、他の記事でも書いていますが、学習において「本を読む」ことが重要だと思ってはいます。もちろん「意見文」の作成も積極的に指導してきています。これらは「思考力」や「表現力」を高めるために不可欠な言語能力を高めることです。その言語能力を高めるには、やはり、言語経験と言語技術の習得が不可欠なものとなります。
ふだん読書をあまりしない人でも、学校現場で文章を読む機会が多少なりともあるのは良いことです。同じ文章を何人かの人と一緒に読むことも、効果的に使えばかなり意義深い言語経験となります。
ただ、やはり学校の言語技術指導はまだまだ、といった印象ですね。
最近は、学校の教室でも「作文」や表現活動が昔よりは増えているようには感じます。ただし、いまだに「意見文」の書き方1つ教えずに「ただ書かせる」こともあるようです。
そもそも文章をただ「読む」ということに関しても、技術的な面の指導はあまり目立たない気がします。やはり「教科書で教える」というよりは「教科書を教える」という印象が拭えません。
これは基本的な学習に対する考え方の部分だから、かなり強く意識しなければ変わらないでしょう。
それより何より、文章を読むとき、いや、そもそも何かを学ぶときに大切なのは、「楽しさ」と「役立つ感」だと僕は思うのですが、その「楽しさ」と「役立つ感」がなければ、どんな施策も、何の意味もないものになってしまうでしょう。
「楽しさ」を感じられるものは、誰が何といおうが、誰に何も言われなくても、自分から進んで、没頭して、気づけばやっている。やり続けているものです。
「役立つ感」があることは、必要に迫られていたり、目的意識が明確だから、意識して行動することができるはずです。
教科書の文章だろうが、映画の原作だろうが、そこに本を読むことの「楽しさ」や「役立つ感」が感じられる「しかけ」がなければ、今の子どもたちが、そもそもすでに大人になってしまった人が、本を読むことをするでしょうか。
小説やマンガが映画化されることが多い現在、動画を観ても原作は読まないという人もたくさんいる。本を読む「楽しさ」を知らない人が、観るのが楽な動画(映画)があるのに、わざわざ、自分で考えたり、想像(創造)したりする「めんどくさい」作業はしないということなのでしょうか。
映像作品があろうがなかろうが、文章を読み、想像(創造)することの魅力を知っている人間からすれば、まったく意味のわからないことではあります。同じ作品なのに表現手段のちがいで、ぜんぜん違う印象になることすらあるのに、そして、それがおもしろいのに。それを味わう機会を自ら放棄するなんて、ちょっと信じられないことです。
たまたま映画の方を先に知って、映像を見たとしても、その作品に原作があるとしれば、やはり読んでみたくなる。逆に、おもしろかった小説やマンガが映画化されると聞けば、気になって観てみようかな、原作とどう違うんだろう、自分が想像(創造)した画とどう違うんだろう、などと考えるだけで楽しいものです。
僕は、現在「作文」などを通して、言語活動を充実させていくためにも、言語技術を育成しようという活動をしています。そういう人間である僕が、本を読んできた理由は、「役立つ感」の場合もあったけど、多くは「楽しさ」ですね。
読書も目的によって、ただ読めばいいというわけではない、という人もいて、確かにその通りです。だが、ただ単に好きで、「楽しさ」を感じて、あるいは「役立つ感」を感じて、読んだっていいじゃないか。
いやいや、そもそもこうした活動をしている根本の動機は、自分自身が本を読むのが好きだし、文章作品も動画作品も関係なく、誰かの言語表現にふれることがただただ好きなのです。
もちろん、好きだけではなく、世の中は「ことば」で出来ていると思っているから、その言葉に敏感になり、言葉の力を高めていくことが必要(役立つ)と思っているからこそ、こうした活動をしているんです。
打算的に、意識的に読書を生活に取り入れるもよし。でも、一方で、無意識のうちにただ読書が好きって理由で、読書が自分の生活の中にあるというのは、それだけでも価値あることだと思うのです。もちろん、その先に、自分が「表現者」「発信者」としての視点を持てるようになれば、言うことなし。
すでにSNSが普及して、多くの人が「表現者」「発信者」でもあります。でも、その作法や的確な方法を知らなければ、自分の真意が伝わらないとか、誰かに不快な思いをさせるとか、マイナスなコミュニケーションが増えてしまうことにもなります。
いずれにしろ、これまでの話で共通点として抜き出すとすれば、能動的に頭を働かせるのか、誰かが作ったものを受動的にただ受け取るだけなのか、どちらかでその先が大きく変わるよってことです。
まとまりのない文章になってしまったが、「楽しさ」と「役立つ感」、そして、大人は「自分が楽しむ」ことを忘れない、これがあらゆる施策に共通の大前提だと思うのだが・・・。
あなたはどう考えますか?
なお、「作文・小論文の書き方」について、しっかりと学びたい方に向けて、本を書きました。上の記事でふれていない内容も入った「意見文の書き方入門書」です。
作文(文章を書くこと)が中心ですが、文章を書くためには、文章を読む力も必要です。ですから、この記事でテーマである「読解力」や「思考力」を鍛える練習方法などもまとめています。
文章読解、国語の読解問題が苦手という方の参考図書にもなると思います。
ぜひ、ご活用ください。
■本に関する詳細は↓こちら↓
「14歳からの作文・小論文講座:我が子に教えたい読解力・思考力を鍛える意見文の書き方入門」
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